キトロロギストXの記録
激しく変化する昨今のもとで一生をカンキツ研究に捧げてきた老学者の独白を広く一般のカンキツ愛好家(キトロロマニア)に聞いていただきたくブログを開設しました。お閑な時にどうぞ目を通してください。
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果物をたくさん食べていますか
syohidai店列

 世界有数の長寿国になった日本は、世界的に果物の消費の少ない民族とみられています。実際、FAOSTATの2013年のデータでは、一人当たりの1日の果物消費量は、世界平均が213gに対して、日本人は145gとなっていました。アメリカ人の平均が286gでしたので、私たちの果物消費がいかに少ないか伺えます。
 今では、生活習慣病にとっての果物の効用を疑う人は少ないものと思われますが、もっとたくさん果物を食べて、健康な毎日を送りたいものです。そこで、世界の国々の果物消費の変遷と、最近の日本の場合を比較してみました。

syohidai世界

syohidaiグループ別

1)世界の果実消費量の趨勢
 統計的には、世界の一人1日当たりの果物消費量は、この40年の間に60%程度も増大していました。勿論、世界の果実生産量や人口増加を勘案しても、果物へのニーズが世界的に高まってきたものと思われます。とくに、開発途上国とみられる国々の増加率には、目を見張るものがありました。

syohidai国別

2)国別の果実消費量の変遷
 1日の果物消費は、国の立地事情で異なり、果実中心か野菜中心かの食習慣の違いで相違していました。野菜をほとんど摂らない中南米の小国では、多くの果物消費がなされていました。1983年に最も多かったイスラエルは410g、2013年に最も多かったガーナは537gとなっていました。みかんを1日に5個ぐらい食べるくらいのことになります。
 この40年間の果物消費の動向は、①時とともに増大した国と、②ほとんど変わらなかった国の2様でした。
先進国では、イギリス、フランス、イタリア、カナダなどが①にあたり、日本、アメリカ、ドイツなどが②の国にあたりました。ギリシャ、スペイン、イスラエルはむしろ消費の減少傾向にありました。消費の急激な増大がみられた国は、中国、ロシア、インドなどでした。
 日本は、この40年間140gから150g程度を推移してきましたが、最新のデータでは販売果物の60%以上が外国産の果実となってきました。国産の安心、安全な果実をという消費者のニーズに応えるために、果物の種類をもっと増やしていく必要もありそうです。

syohidaik仕向け良

 日本人の果物消費がこの長い間あまり変わらなかった理由として、食生活における果実の価格の問題があるかもしれません。あるいは、お菓子の消費との兼ね合いもあるでしょう。なにしろ、何でも買える飽食の日本列島ですから、個人によっては偏食も多いことでしょう。肥満で苦しむアメリカでの取り組みのように、国民の医食同源につながる果物摂食のキャンペーンを、政府が中心になって推進する必要性が、これまで以上に高くなっているようです。 
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デイジ―マンダリンの果実側壁膜の硬さを測る
deijiデイジ果実

 デイジ―マンダリンは、カリフォルニアの苗木屋さんが、フォーチュン(クレメンチン×オーランド、1964レリーズ)とフレモントマンダリイン(クレメンチン×ポンカン、1964レリーズ)を交配して育成したもので、1986年から苗木の販売が始まりました。30年を経て、7月16日にオーストラリア産の果実が購入できましたので、早速、袋膜の硬度と品質調査をいたしました。

deiji硬度

1.袋の側壁膜の硬度
 デイジーの側壁膜の硬度は、平均値で2.97kg/cm2あり、6月10日のハウスミカンの1.67㎏、6月20日の2.39㎏と比較して、高いものでした。食べたときの呑み込みには難がありました。硬度2㎏を下回るほどの果実は、ありませんでした。

deiji果実形質

2.側壁膜の硬度と果実形質との相関
 側壁膜の硬度と諸々の果実形質との相関係数を求めて、果重などとの相関関係を調べてみました。側壁膜の硬度と果実の室数との間に、やや高いプラスの相関がみられましたが、ほとんどの形質との間には、相関関係は認められませんでした。

deiji解剖形質

3.側壁膜の硬度と解剖形質との相関
 側壁膜の硬度と、側壁膜の解剖形質としての側壁膜の厚さ、または、側壁膜を構成する棒状細胞の幅の測定値との間の相関係数を求めてみました。その結果、いずれとも相関関係が認められませんでした。膜の厚さは平均で238μmあり、ハウスミカンの116μmと比べて、厚いものでした。
 
deiji細胞幅2

 側壁膜の硬度の高低に、膜が薄く、構成細胞の太い構造が低硬度となるだろうという単純な予想は、デイでもあたりませんでした。やはり、細胞組織の違いと、さらに、細胞間隙のセルロース、ペクチンなどの肥厚物質の沈着程度が、側壁膜の硬さに関与していると推定できました。

 オーストラリアでは、中生のマンダリンとしてデイジーの生産量が増大しつつありますが、隔年結果性が著しいこの品種が、どの程度国際競争力をもつか未知数です。7-8月に輸出するこの品種が、品薄の日本のマーケットで活躍するには、ハウスミカンの品質を凌駕せねばならず、定着にはハードルが高すぎるでしょう。品質的に難しいものがあります。
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橘のあった邪馬台国の生態は

wajinden-タチバナ

 魏志倭人伝は、古代日本を伝えた貴重な一史料です。西暦280-297年ごろに、中国西晋の人、陳寿が、中国歴史書『三国志』に書きとめたものです。僅かに2000余文字ですが、文字の無かった日本としては、当時の日本の地理、地勢、政情、生活様式などを、興味深くうかがい知ることができます。当時、倭には、卑弥呼という女王の率いる邪馬台国があり、この国を魏の使節団(帯方郡の役人か)が訪ねた時の、見聞録風の記述となっています。
 日本では、ご存知のように、どこに邪馬台国があったかは今でも特定できていません。橘があったと記述している倭人伝の伝えた環境、生態について、考察してみました。

wajinden倭人でん文

倭地温暖冬夏食生采皆徒跣
其木有柚杼豫樟楺櫪投橿烏號楓香
其竹篠簳桃支
有橿橘椒蘘荷不知以為滋味
無牛馬虎豹羊 
――――― 邪馬台国には牛や馬が居ない


 倭人伝は、邪馬台国の人々が、年中暖かく、薄着ではだしで歩いている、手で食事している、刺青して海に潜っている、など南方系の人々の生活を思わせる記述をしています。また、ミョウガやショウガ、橘やサンショウを食べることを、知らないと述べています。これらは、宮殿の周りに良く目に付く植物だったのでしょう。これより500年も後の時代の万葉集20巻(西暦782年完)には、タチバナが花の詩題としてたくさん登場しますが、食べることは記していませでしたので、邪馬台国でも、橘を食用と考えていなかったようです。

 wajinden竹林

 また、竹については、背の低いシノタケ、やや高いヤタケ、木にまとわりつくカズラダケをあげていますが、現在日本に多い、モウソウチクやマダケについては記述していません。モウソウチクとマダケは、中国江南地方に自生していますので、この地方から日本に導入された種類とみなされるでしょう。邪馬台国にはまだ導入されていなかったものと思われます。

wajinden樹種

  また、樹木については、クスノキ(柚)、タブノキ(豫樟)、カシ(橿)、クヌギ(櫪)の常緑樹、コナラ(杼)、カエデ(楓香)、ヤマグワ(烏號)の落葉樹など、9種類を記述しています。投(スギ?でしょうか)と楺(ボケ?でしょうか)については種類を特定できません。ツバキやヤマモモについては、文字がありません。

wajinden幸島サル

  また、動物や鳥については、大ザルやキジがいるけれども、猛獣のトラやヒョウ、役畜のウマ、ウシ、ヒツジは居ないと記述しています。クマについては記述がありません。不思議なことに、カササギ(鵲)が居ないとしています。カササギは、韓国から佐賀など北九州に齎された留鳥で、南九州にはいませんでした。渡り鳥のヒバリやツルについては、時期が合わなかったからでしょうか、記していません。
 
wajinden-気候区分

 上の風景は、明らかに、照葉樹林帯の植生を伝えています。実は、2000年前の日本列島には、鬱蒼とした照葉樹林が、九州から中部地方の山々まで広がっていたといわれています。したがって、魏志倭人伝は、旅人として、よくたくさんな種類をあげていたといえますが、日本の照葉樹林帯のどの地域にもあてはまりそうな、生態の記述になっていたのです。奈良でも、九州でも同じような記載になったことでしょう。ただ、カササギが居ないと記述していることについては、南方を推定できますので一考を必要とします。

wajinden原始林

wajinden照葉樹林渓谷

  日本では、照葉樹林の原生森は、いまではみることができないくらい土地開発されました。1924年に天然記念物に指定された奈良の「春日山原始林」や、伊勢神宮の神域林が、わずかに、原始の姿をとどめています。面積的には、宮崎県東諸県郡の綾の照葉樹林でしょう。世界中が認めている大切な世界遺産となっています。倭人伝の伝えるところからは、邪馬台国が南方の照葉樹林帯のどこかにあったことになります。特定できると素敵ですね。

関連記事:照葉樹林帯とカンキツの栽培 13/09/17
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ミネオラ果実の袋側壁膜の硬さを測る
mineo果実
 
 ミネオラは、1911年にダンカングレープフルーツにダンシータンゼリンを交配して育成したフロリダ生まれの品種です。米国では有望な品種として、これまで普及、栽培されてきました。ウンシュウミカンより多くの熱量を必要としますので、日本では栽培されていません。輸入ミネオラを80円で購入しました。さっそく、果実袋の隔壁膜の硬度を測定してみました。

mineo硬度

1)側壁膜の硬度
 果実の側壁膜の硬度は、平均で2.81kg/cm2ありました。静岡県産の青島温州3.21kg/cm2よりやや低い値でした。袋ごと呑み込むのは困難でした。袋ごと呑み込める1kg/cm2以下の膜硬度を示す果実はありませんでした。また、極めて柔らかい果肉と、側壁膜の硬さの違いに大きな開きがあり、呑み込むのに違和感がありました。

mineo形質相関

2) 側壁膜の硬度と果実形質との相関
 側壁膜は、果実の形質の一つですので、膜硬度とその他の形質とのあいだの相関係数を求めてみました。その結果、膜硬度は、ほとんどの形質と相関関係にありませんでした。

mineo解剖相関
mineo細胞幅1

3)側壁膜の硬度と側壁膜組織構造との相関
 側壁膜の硬さと、側壁膜の厚さや棒状細胞の幅との相関係数を求めてみました。その結果は、側壁膜の硬度は、側壁膜の厚さと弱いマイナス相関に、また、棒状細胞の幅とは、正の高い相関関係にありました。棒状細胞の幅に、細胞外のペクチンやセルロースなどの肥厚物質が厚く沈着し、細胞の幅を厚くしていました。細胞の幅は、厚さが14.7μmと厚く、青島温州の10.6μmより厚いものでした。

 側壁膜の硬度の高低に、膜が薄く、構成細胞の太い構造が低硬度となるだろうという単純な予想は、ミネオラでもあたりませんでした。やはり、細胞組織の違いに加え、細胞間隙のセルロース、ペクチンなどの肥厚物質の沈着状況が、側壁膜の硬さに関与していると推定できました。
 ミネオラは朱橙色の外観がきれいなのですが、味が薄く、アフォーラ(加州産はW-マーコット)の比ではありません。また、剥皮時に油胞からの精油で手を汚しますので、手を汚さないことを心情としている日本人には、受け入れにくいと思っています。

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みかんの神様とお菓子の神様の小話
kitumikan-2伊勢神宮

 日本には神様がたくさんあられます。そして、神々を祭る神社は、現在でも8万1255社以上あるとされています(文化庁、2016)。日本で最も多い神社は八幡神社だそうで、応神天皇がその祭神となっておられます。ところで、みかんの神様とお菓子の神様が、同一人物の田道間守命(たじまもりのみこと)であることをご存知でしょうか。

kitumikan2田島守
kitumikan2垂仁天皇御陵2

 田道間守命については、以前ブログ (橘とゆかりの神社、仏閣; 11/10/18)で紹介しましたように、日本の古典の古事記(712)に多遅麻毛理、日本書紀(720)に田道間守の名で登場した人物です。記紀によりますと、田道さんは、垂仁天皇の命を受けて、常世の国に不老長寿の薬の探索に出かけ、西暦61年から西暦70年まで外遊ののち、ときじくのかぐのこのみ(非時香果)という橘を、苗木にして持ち帰ったとあります。しかし、帰朝した時には、天皇はすでに崩御されていたので、田島さんは天皇を追って自害したという、悲しい故事となっています。
 この銘勳は、天皇の子景行天皇に称えられ、陵墓に奉って、香菓号として田道間名(たちまな)としました.このいきさつが、のちの人々の称えるところとなり、橘(みかん)の祭神として崇められました。実際に、奈良に出かけて彼の縁を訪ねますと、田道さんの命塚が、奈良市尼辻町西池中の垂仁天皇の宝来山古墳の濠に、小島としてぽつんと浮かんでいました。

kitumikan23神社

 和歌山県海南市下津町にある橘本神社は、田道間守命を祭神としていて、田道さんの橘を保存してきたという古い創建の神社です。最近は、柑橘を加工したお菓子とのかかわりで、お菓子の神様を祭る神社となっています。4月第1日曜日には、菓子祭が行われています。

 兵庫県豊岡市三宅にある中嶋神社は、田道間守命を神祖としていて、お菓子の神様を祭る社で、社名の中嶋は垂仁古墳の小島からとったとのことです。創建は606年と古く、田道さん(帰化人)の子孫の三宅吉士の手によるとされています。立派な本殿は、室町中期(1428年)に建立されました。お菓子の祭りとして、4月第3日曜日に橘花祭がもようされます。
 岡山県の中嶋神社、道後温泉の中嶋神社、大宰府の中嶋神社、佐賀県伊万里の中嶋神社など同名の神社は、すべてお菓子の神社で、豊岡の中嶋神社からの分社のようです。菓祖神を祭る京都の吉田神社は、中嶋神社と橘本神社の分祀社となっているようです。お菓子グルメのヒトは、一度は訪ねたい神社です。

kitumikan2和妙抄

 菓子(子は種たねのこと)は和製文字でした。草冠の無い果子は、漢でも大和でも果実を指しました。果子から菓子への変選の歴史は、平安時代に編纂された「新撰字鏡」(812-892編纂)や「和名抄」(931-938編纂)などの漢和辞典に遡ります。これらは、中国最古の漢字辞典である「爾雅」(紀元前200年ごろ編纂::秦の始皇帝が漢字を全国統一したのは紀元前300年ごろと言われています)などにある漢語を、万葉仮名で倭語(日本語)に翻訳したものが多いようで、漢籍の引用が示されています。
 爾雅の木の部に、梅、柚、條、梨、枳殻などの文字で果樹がありますが、新撰字鏡では、木の部が設けてあり、例えば枳が木實成、云加良立花(枳は木の実なり、からたち花という)などと万葉仮名で対釈解説されています。和名抄では、菓類(果を菓にして)の部で、菓類は俗云久太毛乃(菓類は普通くだものという)とあり、菓類が、梨子、栗子、杏子、桃子などに分けて説明されています。したがって、古代においては、菓子は、木の実のくだものだったわけです。
 「源氏物語」(1008年ごろ)では、源氏の君が玉鬘にくだものを送ったくだりがあり、平安の頃は贈答品として果物が多かったと思われます。
 
kitumikan2源氏物語
kitumikan2お供え物

 今日でいう粉を使ったお菓子は、果物を本菓子に対して、唐菓子として区別していたことが、平安初期の「延喜式」(905-927)に記されています。菓類の中に、果物とお菓子は同籍していました。一方、とても不思議ですが、爾雅には、今日のようなお菓子は糕(ガオ)とあり、おやつは点心(ジャンシン)となっていて、果子とは全く別項目でした。日本では、中世、近世と時代が下るにつれて、菓子類の製造や洋菓子等の輸入が増えるにつれて、菓子の中から果物がいつのまにかはずされるようになったようです。
 持論として、古代においては、大和で果物とお菓子を同類としたのは、神道のお供え物として同一視していたからではないかと、考えていますがいかがでしょう。
 奈良の飛鳥村の橘寺は、聖徳太子の造成3寺社の一つとされていますが、神様となられた田道さんを祭ってありました。そして、橘とともに黒砂糖を持ち帰ったとして、田道さんがお菓子の伝道者となっておられます。たしかに、お菓子も橘とともに持ってきたからだとする考えもできそうですが、記紀には記述はありません。やはり、お菓子の神様は、果物の神様と同一人物とみたほうが正論のようです。


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