キトロロギストXの記録
激しく変化する昨今のもとで一生をカンキツ研究に捧げてきた老学者の独白を広く一般のカンキツ愛好家(キトロロマニア)に聞いていただきたくブログを開設しました。お閑な時にどうぞ目を通してください。
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日本柑橘に蜜柑が仲間入りする日
kitumikan媛

 「日本の柑橘の歴史は、実は伝搬の歴史でした」、これはカンキツ学の泰斗田中長三郎さんの言葉です。
 日本に自生していたカンキツは、タチバナだけで、他のすべてがヒトの手で導入されました。そして、「有橘不知以為滋味」と「魏志倭人伝」(西暦280-290)が伝えていましたように、西暦200年頃の邪馬台国の人々は、中国人の言う橘のおいしさを知らなかったわけで、文字をもたなかった時代には、有史以前に導入されたカラタチやユズがタチバナとともに、身の回りの柑橘でした。
kitumikan紫宸殿
kitumikan枳殻

 ところが、時代が下り、古典の古事記(西暦712年)や日本書紀(720年)には、橘の文字が広く散見されるようになり、また、万葉集(8世紀後半)には、88首に橘が詠まれているほど楽しまれています。しかし、どの文献にも、五感のうち味覚について述べた文字がありません。奈良時代までの人々にとって、橘は香りや色を愛でたり、薬理的利用の対象だったと思われます。

kitumikan遣唐使船

 その後、紀州蜜柑や九年母や柑子などが渡来し、味覚を楽しむ果物になると、日本語の新語として蜜柑と呼ばれる橘(中国の橘の意に対して、このころ日本では甘橘->柑橘という語がつくられました)の集団が手に入るようになりました。因みに、紀州蜜柑と柑子は、遣唐使船で西暦850年頃に導入され、肥後、薩摩あたりで小蜜柑と呼ばれました。また、九年母は南蛮船で西暦950年頃に、ザボンとともに導入されました。そして、気候の穏やかな不知火沿岸地(八代海、有明海)が、その後の多くの導入柑橘の安定した生存地域になりました。15世紀中期には、蜜柑が甘味カンキツの用語として、広く庶民の間に定着しました。

kitumikan紀伊国屋
kitumikan江戸庶民

 江戸時代になると、紀伊国屋文左衛門が西暦1685年に嵐をついて、江戸に紀州蜜柑を船移送した話は有名ですが、蜜柑の西から東への流通がみられるようになりました。紀州蜜柑の栽培は、江戸時代を通じて紀州をはじめ九州地方で活発に行われ、蜜柑といえば紀州蜜柑をさすほど代表品種となりました。紀州蜜柑は30g位の小蜜柑ですが、さわやかな甘みを持ちます。しかし、九年母や柑子のような高い糖の集積する資質はありません。

kitumikan橘―蜜柑

 明治(西暦1868年)に入ると、紀州蜜柑は、明治政府が生糸とともに振興奨励したウンシュウミカンに押され、蜜柑の代表を交代することになりました。ウンシュウミカンは、西暦1000年ごろに鹿児島県出水郡長島(以前は肥後藩だった)で、偶発実生として生まれました。欧米では、サツマ(薩摩)マンダリンと呼称しています。紀州蜜柑より大きく、糖の集積が大きいので注目を集め、また、輸出品目になったこともあり、瞬くうちに西南暖地に面積を広げ、蜜柑といえばウンシュウミカンを意味するようになりました。このように、日本のカンキツの歴史には、平安までの食べない柑橘の橘時代から、室町以降のお菓子として食べた蜜柑時代に変遷した歴史のあることが、明白なのでした。

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2017/07/14(金) 09:17:32 | | #[ 編集]
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